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2019.03.07

リバポ周辺をフィールドワークでお勉強①

2019.03.07

  リバポで働いているので、やはりこの場所の歴史ぐらいは話せるようにようにならないとね!ということで公園に建っている石碑の意味や太田橋、太田の渡し。化石林公園の化石。亀淵竜宮や龍神様の伝説などを教えていただいたのでブログにまとめてみました。

 

まずは芝生広場に建っているこの石碑。なんて書いてあるか分かりますか?

「萬緑や 木曽川下る 水飛沫」 萬木

 

俳人としての名前は萬木ですが、大野伴睦さんという方が詠んだ句だそうです。

読めると意味が見えてきますね。この場所にふさわしい句が書かれていました。

川沿いに下りると水神と書かれた石碑があるんです。

水道がまだ無い時代は湧き水が出る場所はとても貴重でそういった場所に水神様や龍神様を祀られることがあるそうです。この場所は他に水難に見舞われないようにと願いを込めて建てられたのでは!?という物です。

太田橋は1926年(大正15年)2月に開通しました。当時は電気ではなくガス灯が使われていたそうです。ご存知の方も多いと思いますが、車道橋は岐阜県初の近代的道路綱橋として土木学会選奨土木遺産に登録されています。

太田橋ができるまでは江戸時代~昭和初期の間、木曽川に太田の渡しがありました。中山道での難所で「木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と言われる中の一つだったので毎日渡れるわけではなく、増水が続けば何日も滞在が余儀なくされるため宿場町である太田宿が栄えたとの事でした。

江戸時代の絵師、歌川(安藤)広重は「木曽海道六十九次之内 太田」で渡し場の風景を浮世絵に残しています。

 

この絵はどちらが上流か分かりますか?

船頭の位置や船の向きから可児側から描いたのではと推測されるので、描かれている山は近くの鳩吹山ではなく、遠くの御岳山なのかもしれませんね。

 

 太田橋が開通の頃に太田の渡しは姿を消し、川下り観光が盛んになりました。

1959年には年間利用者数は33万人を超える賑わいだったそうです。リバポの年間利用者数は10万人ほどですので、まだまだ頑張らないといけませんね。

 

といったところで続きはまた次回のブログで書きたいと思います。ご一読ありがとうございました。

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